土曜日, 4月 29, 2006

寺子屋(寺入り)

東京では、今年は例年より桜の開花が早く、4月初旬にはもう散ってしまった。
4月といえば新入学。初めてランドセルを背負ったピカピカの一年生が見られる季節だ。それで思い出される浄瑠璃に「菅原伝授手習鑑」がある。竹田出雲他の作で、「仮名手本忠臣蔵」、「「義経千本桜」と並ぶ義太夫の三大名作とされている。五段続きの浄瑠璃で、その四段目が寺子屋の段である。
主君菅原道真(浄瑠璃では菅丞相という)のために子供を犠牲にする、至って残酷な物語である。この寺子屋は前後二段に分かれ、前の段が「寺入り」と呼ばれている。主君の子、菅秀才の身代わりとなるため、松王丸の一子小太郎が母親の千代に連れられ、武部源藏の寺子屋へ寺入りに来る。寺入りとは入学のことである。

大体に於いて初心者がこの段を稽古する事が多く、当然私も習った。 それは、一段の中に義太夫の重要な基本的部分が網羅されているからである。まず本文冒頭の「一字千金、二千金、三千世界の宝ぞと、教える人に習う子の、中に交わる菅秀才」。義太夫はその冒頭の語りだしを「マクラ」と言い、総じて難しく、私も何度も直され稽古した。文字の一字は、千金にも二千金にも値する、という中国の故事を引用しているが、ソナエからウキンという手で始まるこの曲が、なかなか腹に収まらない。ぐっと臍下丹田に力をいれて語るのだが・・・・・・。

さて、この寺子屋には気品高き、菅丞相の一子菅秀才もいれば、百姓の子供達も一斉に手習いをしている。どこのクラスにも悪さがいるもので、ここには「涎クリ」といって、15にもなって涎を垂らした知能の遅れたヤツがいる。これがなかなかの悪さで、師匠の留守に手習いをせず(へへののもへじ)を書き暴れている。菅秀才は、そんなこと書かず「一日に一字学べば三百六十字の教え」といってたしなめ相手にしない。歌舞伎でやると涎クリが立たされる科がある。源藏の女房の戸浪が出てきて、今日は主人源藏は留守だが、午後に寺入りがあるので、よく勉強しなさい、昼からは授業は休みというと、そりゃ又嬉しや休みじゃ、と手習い文を声高に読み上げる。今も昔も変わらない子供の生態をよく捉えて面白い。小太郎が寺入りし、母親は隣村へ行くと言って出かけると小太郎は親の後を追う。母は子を叱り、戸浪にまだ頑是がない、と言うと戸浪は、そりゃ道理だ、小母がよいものあげましょう、早く帰ってきて下さいと、目で合図、千代は下男をつれて出て行く。これが、子供との一生の別れになる。此処で寺入りの段は終わる。

寺入りだけを見ていれば子供と母親の単なる親子劇だが、この後の寺子屋でいとも無惨な劇に発展するので、何ともやるせないものである。親子にとって最も嬉しい入学の日が、親子の永遠の別れの日になるとは、悲劇の最たるものであろう。

<弥乃太夫>

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火曜日, 4月 04, 2006

義経びいき

昨年はNHKの大河ドラマで「義経」が取り上げられたが、この義経と塩冶判官(忠臣蔵でお馴染みの、淺野内匠頭)の二人の“判官”は、悲劇の貴公子として昔から日本人に愛されている。兄頼朝の弟義経に対する仕打ちが余りに酷いとの見方から、頼朝は悪役、義経は可哀想な悲劇のヒーローというイメージが作られ、そこから判官贔屓という言葉もできたのであろう。ともかく源義経は日本各地で人気があって、特に義経信仰が強い土地では、地芝居や人形浄瑠璃、どんな舞台でも演目に関係なく、義経が登場しないと治まらない、と言うことを度々先輩から聞かされた。同じようなことは他にもある。熊本地方では、虎退治の加藤清正を出さないとお客が承知しない、などもあったらしい。

昔は地方によっては、その土地に残る信仰、風習、伝説などにより上演がタブーである歌舞伎の演目があった。たとえば、平敦盛信仰がある土地では、敦盛が須磨の浦で熊谷に討たれた事実をモチーフにした芝居「一ノ谷」はやらない、やれば大きなたたりがあると言われていた。忠臣蔵の世界では、吉良上野介(芝居では高師直)は悪役となっているが、三河の国では大変よいお殿様として土地の人に崇拝され慕われているとかで、この地方では忠臣蔵の芝居は打たない、と聞いたこともある。(現在では全国津々浦々歌舞伎興行があるので、そんなことはないだろうが)。どんな演目にも義経が登場するというのも、それとは裏返しのようだが似たような発想であろう、「合邦」(摂州合邦辻)だろうが、「酒屋」(艶容女舞衣)だろうが何をやっても義経が出てくるそうだ。
「酒屋」の場合、具体的にこんな具合である。先輩が見たというその舞台の光景を、そのときのメモから再現してみよう。

宗岸、半兵衛、母お幸の三人が、奥へ入る。床の義太夫、“しおしお奥へ泣きに行く、心の内ぞ、哀れなり”。
ここで義経登場。“~テテン、テンテン~かかる所へ義経公、一間の内より立ち出で給い、~ツーン~
さしたる事もあらばこそ、奥の一間へ、立ち帰る“ 此処で”シャラン“ ”あとには園が憂き思い・・・“となる。

ところで、「虹の会」という、芸能の伝承と保存、老人福祉への社会貢献を目的の法人に依頼されて、昨年11月末、義太夫のセミナー活動を行った。受講者は年配の方が多く、義太夫におおいに興味を示されたので、上記の「酒屋」を実演したところ、大爆笑だった。お茶の間にいきなり鎧兜の大将が飛び込んでくるような光景は、想像するだにおかしい。演奏する太夫、三味線は大真面目であったと思うと、よりおかしさが増すようである。

<弥乃太夫>

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土曜日, 3月 25, 2006

櫓太鼓

平成18年大相撲初場所は、ついに朝青龍の連覇ならず大関栃東が優勝した。
外国人力士が日本国技の相撲に入門、縦横無尽と暴れ回り日本人はどうしたと情けなく思っていたので、栃東の優勝で些か溜飲を下げた次第である。そして今場所。期待の栃東が早々に敗れ、白鵬が快進撃中。またも外国人力士活躍の場所になってしまった。

さて、義太夫で相撲の入るものと言う と文楽でも芝居でもよくでる「双蝶々曲輪日記」。そして「関取千両幟」がある。殆ど掛合いの曲で、私の若いときは、義太夫の会にこれがでると、私などは、「大坂屋」「呼び出し」に決まったものだった。何しろ早口で洒脱で、しかも無本でやるので中々難しい。これの歌舞伎芝居も又好いもので私は好きだ。鉄ヶ嶽が引っ込みに、「こりゃ稲川、魚心ありゃ水心、土俵で逢おう」と言うと、取的がすぐに、「ぬか袋ありゃ、かんぶくろ」と真似をする。これを子供の時はよく真似たものだ。
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この曲はまた、「櫓太鼓」の曲弾きで有名である。曲弾きとは、三味線をアクロバット的に演奏することである。昔、先輩から「櫓太鼓」の曲弾きの手書き本を頂いた。それには懇切丁寧に図解入りで、何処でバチを放り上げるとか、右手はどうするとか、バチの握りかたとかが克明に記されている。この本を書いた人は、非常に研究心のある人のようである。今はあまり曲弾きはやらないが、いつだったか女流義太夫の人がTVでやっていたのを見たことがある。失礼ながら棹を立てる時でも、何だか怖々と、おっかなびっくりでやるので心配で見ていられなかった。 
又、なんでも触太鼓は、お客の出と入りに打ち方を変えて打つと聞いたが、実際に太棹でそれに似せて演奏するのだから、相当訓練がいると思う。昔の豊沢猿平さんはすばらしかった。

後半では稲川の女房おとわが、夫の無事を神様、仏様、妙見様へ願掛けお願いしている。妙見様は芝居ではおなじみの仏様で、様々に登場してくる。 以前にもちょっと触れたが、中村仲蔵が定九郎の役者スタイルを変えたのも妙見様の帰り道だ。歌舞伎の黒御簾から“チャンチャンチャン~どうぞ叶えてくださんせ。妙見様へ願かけて”の下座音楽が流れてくるといつもわくわくする。この下座はいい、私は大好きだ。
力士に怪我はつきもの。神仏に願掛けせずにいられないほどだから、相撲取りの女房は大変だと思っていたら、
誰だか若い子が言っていた。大男の力士相手だから、部屋の切り盛りもやりがいがあるし、お相撲さんは可愛いしお嫁さんになりたーい、そうだ。さまざまなものだね。

最近の相撲でもう一つ気になることがある。それは、行司と、呼び出しが打つ柝の音の双方の息が詰まっていない気がすることだ。「方や誰々、方や誰々、この相撲一番にて」“チョン”「本日の、打ち止め」。この“チョン”の間(ま)が大事なのだ。 義太夫の口上も同じで、我々が語る前の口上も、発声訓練をして息の詰めを大事にしている。どちらも間の取り方が大事という点で、相撲と義太夫、案外近しいものかもしれない。

<弥乃太夫>

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金曜日, 3月 24, 2006

節分

今年は例年になく寒さが厳しく、春が待ち遠しかったが、節分と聞いては暦の上では明日は立春。まだまだ春は先なのだが、やはり気持ちが和らぐものである。

節分とくれば、お馴染み河竹黙阿弥の傑作、歌舞伎「三人吉三」。大川端のお嬢吉三の台詞、
“月も朧に白魚の、かがりも霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ鴉のただ一羽、塒へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で泡、思いがけなく手にいる百両、(おん厄払いましょう厄落とし、) ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山に一文の、銭と違って金包み、こいつア春から縁起がいいわえ“

歌舞伎では、こういう美文調の長ぜりふを「厄払い」といっている。
最近は景気は上向いている、なんて、かけ声だけでちっともよくないとは世間の評判。ライブドアや、牛肉の不正、偽装建築など色々な事件も後を絶たない。せめて豆まきして、厄を払い福を沢山取り込んで、景気のいい世の中になって欲しいものである。

近頃は一家揃って何か行事をすることが段々なくなってきたが、昔は正月なら歌留多百人一首、そして当然、節分には豆まきをした。我が家でも子供が小さかったときは、交代で枡を持たして、大きな声で、福は内、鬼は外、兄妹で大はしゃぎだった。これを録音にとって、音楽を入れ編集をし、録音コンテストに出したところ、カメラの賞を貰った事があった。昭和39年頃である。我が家の氏神様は赤坂の日枝神社だが、昔は節分のときは赤鬼が出てきて、豆に打たれ逃げ廻るなどして、なんか当時は楽しかった。今ではただ豆を撒くだけで,面白みがない。

節分で思い出すくだらない話を少々。
「福は内、福は内、鬼は外」。するとそばから落語家が、「丸の内、丸の内、外神田!」 
また、読売新聞に連載していた漫画「とどろき先生」で、玄関へ夫を送ってきた若妻、
「行ってらっしゃい。ネエ貴方、今夜は節分よ」 聞き間違えた夫、いきなり抱きついて接吻。
此には笑ったネ。             

<弥乃太夫>

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日曜日, 1月 29, 2006

上方唄「十日戎」

上方唄の「十日戎」は当時の流行歌らしくいろいろな芸能に使われた。義太夫では「寿連理の松」港町の段で、主人公の太左衛門がほろ酔い機嫌で戻るときにこの十日戎の曲が使われる。“イヤ申しご無心ながら、煙草の火を一つおかし、ヤこれ姉さん、正月に針仕事とはテモきつい、篤実家じゃな、親父さん留守かえ、清十郎どんはどこへ、播磨のお客や、島之内のも息災でかな…”この義太夫は、お夏清十郎を取り扱いながらもめでたい段切で、そのためか外題にも「寿」の文字を嵌めてある。そんなめでたい演目に、お正月の屠蘇気分が漂ってくるこの曲はいかにも似合っている。また歌舞伎では「関取千両幟」稲川内での鉄ヶ嶽の台詞、“コリャまて、待て稲川、その身請けの訳もその客も、この鉄ヶ嶽がよう知っている程に、まあ行かずともよいわいやい…”のメリヤス(BGM)に使う。

この曲は酔っ払いの出入りによく使われている。仲間(ちゅうげん)などが酔ってあっちへヨロヨロこっちへウロウロした光景に、伸縮、緩急自在のメリヤスとしてうってつけなのであろう。いかにも酒に気持ちよく酔った曲調のようだが、もともとの歌詞に酒や酒飲みのことが読み込まれている訳ではない。なぜこの曲が酔っ払いのイメージで使われるのか。常々不思議に思っていたところ、戎神社からの帰り、タクシーの運転手の言葉で疑問が解けた。いわく、笹は酒のことであると。つまり酒は古くはササといった。“笹を担げて千鳥足”は“酒を担げて千鳥足”の意味でもあったのだ。また上方の商家では、酒をもらったお返しに商売繁盛の縁起物の飾りを差し上げる風習があったとのこと。その風習や戎詣りの縁起物を読み込んだこの唄は、商売繁盛の神様戎さん信心が高まるにつれ、大流行したのだろう。義太夫に採りいれられ、笹=酒の連想からか酔っ払いのシーンに繰り返し使われる内に、この曲を聞いただけでお屠蘇気分になったのかもしれない。曲調とシーンがよく合っていたので、後に歌舞伎にも採りいれられたと思われる。

もともとの意味はなくても、繰り返しある場面で使われる内に、あるイメージができあがる。曲節とは大体このようにして出来上がっていくもののようである。
戎さん詣でのご利益か、一つ利口になったようだ。

<弥乃太夫>

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土曜日, 1月 28, 2006

十日戎お詣りの記

毎年1月10日は、商売繁盛の神様、大阪今宮戎神社の祭礼「十日戎」である。上方唄「十日戎」でおなじみだったが一度も行ったことがない。そこで前夜急に思い立ち、娘とお弟子二人の四人でお詣りすることにした。お弟子の内一人は大阪出身、子供のころに行ったことがあるそうで心強い。

ebis1東京から「のぞみ」で2時間半、昼ごろ今宮戎神社に着いた。辺りは東京のおとり様のような雰囲気である。しかし人混みはそれほどでもなく、比較的楽に拝殿に近づけた。意外に小さい神社である。これがあの名高い神社かとちょっと不思議に思う。しかし境内は“商売繁盛で笹持って来い”のテープが間断なく流れ賑やかである。まず笹を渡され(この笹は無料)、その後縁起物の飾りを自分でアレとソレという風に指定して、笹につけてもらう。その数で値段が決まる。ちょうど寿司屋のカウンターのようだ。

ebis5飾り物はまず唄のとおりに“十日戎の売り物は、ハゼ袋に採り鉢、銭かます、小判に金箱、立て烏帽子、ゆで蓮、才槌、束ねのし”の小宝がある。これを吉兆(きっきょう)と言うそうだ。その他にも戎の人形がついた熊手、俵、末広などなど、めでたいもののオンパレードである。笹に飾りをつけてくれるのは、その年選ばれた「福娘」達。美人揃いで彼女らを狙って盛んにカメラのシャッターがきられる。ちなみに福娘に選ばれると就職の際にも有利とのこと。“福”が来るのは会社にとっても喜ばしいのであろう。そのためか福娘になれる倍率は大変高いそうだ。

ebis3しばらくして境内が賑やかになった。三味線、太鼓の伴奏と共に芸者さんが駕籠に揺られてやってくる。宝恵駕籠というらしい。神社を出て道頓堀方面に向かう途中でも、いくつもこの駕籠の行列に出会った。各町会ごとにこの行列が組織されているらしい。芸者さんを中心に福娘たち、付き添いの男性と、華やかである。テープで流している賑やかな伴奏の音楽に興味をそそられ、取締り役らしき初老の男性に何の曲か尋ねたら「ええ?全くわかりまへん」とのこと。行列して大店の玄関先で順にご挨拶するらしい。ちょっと東京では見られない、粋でもなくかと言って野暮でもない、全く商業繁栄の都市、大阪らしい行事だと思う。

その後道頓堀で遅い昼食をとる。ふぐでも、と思いある有名店に入ろうとした矢先、救急隊員と共に慌しく担架が担ぎ出されてきた。ふぐ屋で救急車とはシャレにならない。あわてて隣のかに屋に移動した。夕方帰途に就く。大阪滞在時間は5時間足らず。日帰りの慌しいお詣りだった。

<弥乃太夫>

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木曜日, 1月 12, 2006

羽子板市

毎年、師走になると浅草観音境内には、羽子板市が軒を並べる。観音様の日は毎月17、18日で、歌にも「17、18観音さん、25日は天神さん、28日は不動さま」と言う。浅草では近年三社祭は5月17、18日に近い日曜日を選んでいるが、この羽子板市だけは17、18、一つおまけして19日の三日間だけである。日曜には関係ない。羽子板市は詳しくは「歳の市」という。又、羽子板市と同時に「ガサ市」というのが観音様の裏の境内に立つ。
此処では注連飾りなどの正月の飾り物が主として売られている。派手な色彩の羽子板とちがって、名前からして派手さがない、だから知る人は少ない。

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さて、今年の羽子板市は晴天に恵まれた。年々店は増えているようであるが、羽子板に特に目立ったものはない。年々、押し絵の役者絵のものが少なくなり、淋しい限りである。昔はその年に人気のあった歌舞伎役者の羽子板が飾られたが、今では映画女優や、野球や、スポーツ選手のものが目を惹くだろう。あとは役者絵でない道成寺などの只々綺麗だ、と言うだけの羽子板である。中村勘三郎襲名のものは、ただ写真が飾られてあった。特大な羽子板の題材は相変わらず、一ノ谷嫩軍記の組討ち、である。にこにこ笑っているのは、秋場所後大関になった琴奥州の羽子板。そして松井、イチローなどスポーツ選手のもの。並べてある羽子板を指して、そこの「入谷」見せてとか、手前の「松王」などと言ってもわからない。売り子のおねえちゃんが歌舞伎を知らないのである。…

私の母は芝居が好き、羽子板が好きで、私にもその気風が伝わったか、殆ど毎年のように買った時期があった。母は、値切るのも一段と上手かった。値切ったぶんは羽子板屋にご祝儀として渡すのである。私の娘が生まれたとき、母が買ってくれた歌右衛門(当時、芝翫)の「瀧夜叉」は、いまでも毎年の正月には日の目を見る。物心つくころから見慣れたせいか、娘も羽子板が大好きである。「瀧夜叉」は常磐津の名曲で・・・・嵯峨やお室の花盛り・・・直接義太夫とは縁がないが。我が家の羽子板は、特に歌舞伎義太夫狂言の作品が多い。野崎のお光、妹背のお三輪、先代萩の政岡、道成寺、かむろ、他にも助六、外郎売り、三人吉三、等々きりがない。羽子板を前にことあるごとに芝居を話題にしたのが影響したのか、娘も歌舞伎や邦楽に趣味を持つようになった。

慌ただしき年の暮れ、一段落して座敷に羽子板をいっぱい飾る。色とりどりの色彩に囲まれて、アアもう正月だとわくわくしたときもあった。今はお正月でも、羽根の音は都会では聞こえない。せめて羽子板の色どりに昔の正月の風情を感ずるばかりである。

 <弥乃太夫>

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水曜日, 11月 30, 2005

酉の市

毎年11月の、暦で酉の日はおとり様。浅草の鷲神社(大鳥神社)の祭礼で、通称「お酉様」として、境内には所狭しと縁起物の熊手を売る「酉の市」が立つ。何軒の店屋が出ているのか、年々その数も増えて、賑わいは大変な物である。
近年東京各地にも酉の市は立つが、浅草のおとり様は全く群を抜いている。今年は二の酉、11月に酉の日が二回あるのでそう呼ばれている。よく三の酉の年は火事が多いと昔から言われていた。何でかと思うが、解らない。

今年の一の酉は11月9日。天気もよく暖かかったが、今と違って昔は寒かった。10月のべったら市しかり、お会式しかり。11月になっておとり様の時にはもう冬が近いとあって、マントの襟を立てたり、防寒具に身を包んでいる人をよく見た。母や祖母が、(もうおとり様だもの、寒いネ、)とよく話していた。毎年のことなので、かき込み(熊手)を受ける。店屋さんや、水商売、芸能人など様々な業種のひとのお詣りが多く、熊手を買っては、店の繁盛に従って翌年には更に大きい物に変えてゆくと聞いている。

鷲神社辺は、樋口一葉に縁がある竜泉寺近くでもある。今年新五千円札のお陰もあり、一葉記念館も新しくなったので、多くの若い人に人気があるようだ。そして又、有名な吉原遊郭の入り口でもあるので、昔からおとり様にかこつけて遊びに行く若者も多かった。とくに吉原もこの日ばかりは、女性でも家族連れでも大々的に向かい入れてくれたようだ。江戸時代からこの日の夜は、特に遊郭が繁盛した。ところが反面「酉の市の売れ残り」という言葉もある。おかめの面のついた熊手の売れ残りに掛けて、醜い女を指すのか(と思うが…)
義太夫で酉の市に因んだものを考えたが、ちょっと分からない。大阪の「十日戎」の市なら、上方唄にもあり、「港町」の義太夫にも取り込まれているが、義太夫はやはり発祥が上方だからか、酉の市は見つからない。

今年平成十七年は酉年で、十二年に一度の酉の年の酉の月であるから、おとり様にお詣りすることは特別に意義深いかも知れない。
ところで、わかりますか?平成十七年、十一月、九日、午後六時頃が、「酉の年、月、日、刻」です。

<弥乃太夫>

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金曜日, 8月 19, 2005

四万六千日と雷除け

毎年七月九、十日は浅草観音の四万六千日で、善男善女のお詣りで大層な賑わいを見せる。何しろこの日にお詣りをすれば、観音菩薩の御利益を四万六千日間受けることが出来るというのだ。電卓で計算したら126年と10日。私は生まれてこの方、毎年お詣りしているので大変な数字になる。
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当日は、風神雷神が祀られた雷門をくぐり、仲見世をまっすぐに観音堂に向かうと、境内ところ狭しとホオズキの市が立並び、本堂では災難除けとして雷除けのお札が売られる。雷は昔から、「地震、雷、火事、親父」の怖い物の代表である。かみなりは神鳴りで、神の怒りに触れるから怖いとされているのだ。
しかし雷神はどこかユーモラスで、憎めないところがある。それは、あの想像画から来ているのかも知れない。虎の皮の褌をはき、角を生やし、太鼓を背負っている。そして人間のへそが好きだ。
義太夫節に「かみなり」と言う曲節がある、かみなりをユーモラスに描写したコミカルな曲で、化け猫を逆さにした「猫化け」という曲と双璧をなす。
また舞踊曲の「かみなり」(「お染の七役」より・・これは元来、常磐津の曲らしい)にはとぼけた詞章がついている。


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“西で鳴らそうか、東で鳴ろうか、思う坪さえ北山風に、雲のかけ橋スッテン、スッテン、
天ころり、おしゃりこしゃ、落ちて下界の面白や、ピカピカごろごろ、雷さん。
雷下駄はいて、絞りの浴衣で、来るものか、オッチョコチョイノチョイ、こわや、雷、角が、二本あって頭が獅子のようで、大きな牙剥いて、剣のような尖った爪で、大事な々々、私のおへそをとろとした、私もその時や、どうしよかと思った、泣くなよい子じゃ、こんなものやろうな、二度と出よまい夕立時に、ほんの事じゃと思わんせ。・・“

雷が空から落ちて医者の世話になり、治療代が払えない変わりに、人間に害を与えない約束をして、天上に戻ってゆく。


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では俗曲を一つ。新土佐節、
“かみなりさんは粋な方だよ、戸を閉めさせて、二人を取り持つ、蚊帳の中、ソウダソウダ、マッタクダヨ”

そういえば一頃「かみなり族」というのが流行った。いまでは「ドリフト族」と言うのがあって、急ブレーキをかけて方向転換などを競う技術集団とのことらしいが、いずれにしても雷から派生して危険なことだ。音曲のかみなりさんはとぼけて、ちょっと粋だが、現実の雷はやはり怖い物である。     

<弥乃太夫>

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日曜日, 8月 07, 2005

入谷と朝顔市、根岸の話

入谷の鬼子母神、真源寺の境内には、毎年七月六、七、八日に朝顔市が立つ。梅雨の盛りの市なので時々雨が零れる。朝顔は朝早く行かないと花がしぼんでしまう、午後から行ったのでは駄目だ。最近は浴衣姿の女性が目立つようになった。
昔から、鬼子母神と言えば、「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」と言いならされているので、東京の下町では懐かしい場所である。
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そしてまた、入谷と来れば、
“雪のあしたの入谷の寮で、アッタトサ、可愛い直はんの膝にもたれて泣いたとさ、エッササのエッササのエッササのサ“の「お伊勢詣り」の俗曲替歌でおなじみ、直はんこと片岡直次郎と三千歳花魁との逢瀬の場でもある。三千歳花魁との濡れ場では、清元「忍逢春雪解」がはいる。
「待ってました」!”一日逢わねば千日の、想いにわたしや煩うて、鍼や薬のしるしさえ、泣きの涙に紙濡らし、枕に結ぶ夢さめて、いとど想いのます鏡・・・・・“
直次郎は、歌舞伎の舞台では蕎麦やの場で実際に蕎麦を食べる。
江戸歌舞伎ならではの粋な芝居である。私は幕切れ近く、丑松との別れが好きだ、
「長い別れになる二人、どこぞで一杯やりてえが、町と違って入谷じゃあ、食い物店は蕎麦や
ばっかり、天か玉子の抜きで飲むのも、しみったれた話だから、祝い伸ばしてこのままに、別れてゆくも降る雪より、互いにつもる身の悪事・・・」 河竹黙阿弥の傑作である。

その入谷の近くの根岸、そこには「化け地蔵尊」というのがある。大分以前には、根岸の花柳界に見番があって、そこでは義太夫の会が時々催された。私も出演したことがあったが、近くに住む義太夫が大好きなおばさんがその化け地蔵の由来を教えてくれた。asagao4

直次郎が三千歳のところへ通うとき、必ず地蔵の前を通る。地蔵が焼きもちを起こして、クルット背中を向けるので、いつとは知らず「化け地蔵」と呼ばれたと。

また近くには、樋口一葉の小説に出てくる、小野照さまがある、その境内には、七月一日の山開きに開山する、三階建て位の高さの富士山がある。頂上まで何合目と札が立っていて、今年も登ってきた。他にも「御行の松」や豆腐料理の「笹の雪」もまた有名である。

もうひとつ、根岸というと昔からよく言われる、「○○や、根岸の里の侘び住まい」 
これは便利なことに、○○になんでも季語をはめれば俳句が出来てしまうという。

では私も最後に一句。 

 梅雨空や 根岸の里の わび住まい

<弥乃太夫>

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