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土曜日, 2月 19, 2005

寿座の話

本所緑町一丁目に小芝居の寿座があった。
浅草の宮戸座が閉鎖して、そこの俳優さん達が寿座に集まった。勿論戦前の話であるが、もう戦争末期で、芝居を観ているときに警戒警報が二度程鳴ったのを覚えている。多分偵察に飛んできたのである。それからしばらくは平穏な時代が過ぎ、勿論芝居は続けられた。

宮戸座や寿座などで観た、我々世代で知っている役者のひとり市川新之助(九代目団十郎の妹娘の婿)は、綺麗な役者で、良弁僧正がよかった。義士外伝に繋がる「石切勘平」なんていう芝居もあった。松本高麗之助の「輝虎配膳」や「大蔵卿」、板東竹若の「封印切」などは絶品。実川延松の「寿門松」の浄閑も。市川福之助などは大歌舞伎に来てからは、「忠臣蔵六段目」のおかや、「実盛物語」の九郎助の女房などで活躍したが堂に入っていた。小芝居復活の「壺坂霊験記」もまた面白い。お里に横恋慕する雁九郎という悪党が出てくるが、同名のメリヤスが竹本に残されている位だから、お客を喜ばせるために関係者はかなり苦労しているのがわかる。

小芝居は普通二回芝居といって馬鹿にされるが、今に思えばお客を充分に楽しませてくれた。同じものを一日に二回やり、狂言は十日間で変わる。観る方は楽しいが芝居の関係者は大変だったろうと思う。時代の流れで小屋はなくなり、小芝居に出ていた人たちが、大役は付かないまでも大歌舞伎に入って、脇で今の歌舞伎を支えてくれた。感謝せずばなるまい。しかし現在は殆どそのような人は残っていないと思う。
最近歌舞伎フォーラムで、大歌舞伎で取り上げられない小芝居の狂言の復活を、何回も続けているが、大賛成である。今では知っている役者がいないので、台本があってもなかなかおいそれと出来ないようである。特に義太夫狂言は無理だ。もっと早くに手を打つべきだった。

<弥乃太夫>

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土曜日, 2月 12, 2005

詞(コトバ)のアクセント

義太夫では、人物の言葉をセリフといわずコトバという。そして、アクセントがある。それを、なまり、訛(テツ)という。いつも引き合いに出すのだが、例えば「雨」と「飴」、「神」と「紙」「髪」、「箸」と「橋」「端」、等それぞれにアクセントが違う。東京の標準語と関西語の違い、又義太夫語としての独自のアクセントの違い、義太夫節は関西弁でやればいいという人がいるが、いささか違うと私は思う。今その論議は措くとして、アクセントの表し方は、線を斜め右あがりに書くと(上)、まっすぐ右が(中)、ななめ右下がりが(下)である。たとえば標準語で「雨」は(上中)で表す。

野沢吉二郎師に教えを請うようになって、アクセントを習いに行った時、酒屋のサワリの「今頃は半七さん」を音符で書こうといわれた。どっかにピアノがないかな、といっても昭和24年の時なので簡単にはない。そこで私が無理して買った大正琴で、師匠の言われるままに一つ一つキイを押してアクセントを覚えた。そこで習得したことが後になって、上中下の表し方以外に、上のやや下、中のやや上、中のやや下、下のやや上と、アクセントの微妙な違いの理解に役立った。義太夫を語るのに、そこまで神経を使う必要はないと言われる向きもある。が、私は妙にそれが気になる。今に思えば、義太夫の言葉を音符で表そうとする師匠の試み、すごく偉大なことである。

<弥乃太夫>

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木曜日, 2月 10, 2005

節づくしと八功神

*斉藤月岑編著の「声曲類纂」の中の「節章句早覚えの事」、
『出のはる節はしとやかに』から『竹のしたたり末の世迄是ぞ呑とはしられける』
までの文を景事風(音楽的要素の強い舞踊曲風な義太夫節)にまとめたものを、俗に「節づくし」と謂っている。
野沢吉二郎師はこれをさらに解りよく改訂し、きっちりと朱本(譜面)を整理した。その内容は、義太夫節が採り入れた古浄瑠璃のいろいろの節や、義太夫本来の節の語り方といった事柄、それぞれの地合や節を端的に表しているので、大変参考になると思っている。普通の語り物と違い一般には興味が薄いと思うが、私は師より伝授を受けたので数人に教えた。埋もれさせておくのは甚だ惜しいので、さらにこの種の朱本を整理し、音源化の予定である。

「声曲類纂」の末尾に、浄瑠璃発展に功あった人物を八人選び出し、これを神格化した「八功神」の図というのがある。小野於通女、西宮百太夫、澤住検校、井上播磨橡、竹本筑後橡(竹本義太夫)、豊竹越前少橡、近松門左衛門、竹澤権右衛門の八名である。明治九年九月、五代目竹本春太夫、四代目竹本実太夫、四代目鶴沢清七のお三方が発願人となって、祖先の竹本義太夫さん始めとしたこの「八功神」を、義太夫関係者に寄付を仰いで、神として大阪の生国魂神社に分祠した。私も参詣したが、祭神にはそれぞれに神号もあり、浄瑠璃神社として本殿の脇に鎮座している。
この神社は大阪文楽劇場からほど近いので、皆さんも一度尋ねてみては。

*斉藤月岑編著「声曲類纂」 斉藤月岑(1804-1878)は江戸末期の著述家
「声曲類纂」は江戸時代の音曲に関する書で、古浄瑠璃から義太夫節、長唄、小唄等の多くの音曲の歴史、由来、人物列伝などを解説している。 <弥乃太夫>

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水曜日, 2月 09, 2005

竹本土佐広さん

義太夫教室第一期生の教場が、京橋大根河岸の飯泉さん宅に移った。川口子太郎さん宅の前である。
ある日、今日はプロの女の方が見えて、義太夫の演奏を聴かせるというので、期待に胸ふくらましていた。笑みを浮かべて感じが良い小柄な先生だ。この方が竹本土佐広さんといわれて紹介された。弾き語りで「艶容女舞衣 酒屋」の段を聴かしてくれた。
私はそのときの感激というものをいまだに忘れない。今までは、よく鼻歌交じりに母や祖母、叔父に至るまで義太夫を語っているのを聴いていたが、本格的なものを目の前、それも、一メートル位のところで聴いたのだから大感激だ。上手とか声がいいとか、そんなものじゃない。ともかく目からうろこというのか、その義太夫に陶酔した。
以後は土佐広師に随分と目を掛けてもらい、見台等も頂いた。母に話したら、伊達子といって、浅草のパテー館にも出て上手な方だよといっていた。その小屋には、のちに映画館になってから私も行ったことがある。浅草六区(映画演劇街)には、他に義太夫座もあったが、私はそこへは行かなかった。
  
家内の父が素人義太夫で、森市菊と言って、よく土佐広さんに稽古してもらっていた。もともと地合の下手な人だが、詞は上手かった。その父が、「どうも太夫さんに稽古してもらう方がいいね、三味線さんは、自分の糸を気にして素人の我々を、上手く語らしてくれない」といって、節の下手なのを棚に上げ、土佐広さんをとても褒めて好きだった。
お酒のお好きな方で、飲むとすごく愉快になって、よく鶴沢三生師と飲んでは談話に花が咲いた。今では、土佐子さんや土佐恵さんが、師の薫陶をえて義太夫協会を支えてくれている。

<弥乃太夫>

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水曜日, 2月 02, 2005

川口子太郎さん

私の住んでいる東京の京橋は、お江戸日本橋を出発し京へ向かって第一番目の橋なので京橋というとか、その橋の名に因んだ町名である。その京橋のたもと、銀座中央通りを挟んで右が大根河岸、左が竹河岸といった。広重の江戸百景にもある。今は川は埋め立てられ橋もなく、上を高速が走り、何の面影もない。辛うじてそこに建つ竹河岸ビルというのが昔の名の名残を伝える。

その大根河岸に、川口子太郎さんが住んでいられた。慶応を出て歌舞伎の演出家になり、西の武智(鉄二)、東の川口といわれた俊才で、生来義太夫が好きで、魅せられ、結果、妹背山の杉酒屋の登場人物「子太郎」を自分の芸名にした人だ。終戦後初の東劇(東京劇場)の歌舞伎では、後の勘三郎の「もしほ」と、歌右衛門の「芝翫」で、「壺坂霊験記」を演出した。
歌舞伎、浄瑠璃について詳しく、頭脳明晰、大の勉強家である。
「十種香」の八重垣姫は、幕が開いたとき何で後ろを向いてるの?それも観客から見て真後ろに。わかる?というようなことを言う。また「吉野山」中の文章、<天井抜けて据える膳>これは何なのか?ここでなんでこの表現が必要なのか、などなど。夜遅くまで、時には泊まり込みで、話に夢中になったものだ。私も他の数人もおおいに感化を受けた。

そもそも私がその川口さんと知り合いになったのは、彼が湊太夫さんの使いで私が当時勤めていた宿舎に訪ねてきた時である。色の青白い、やせ形の、インテリっぽい人だった。
今度若い人たちのために、義太夫の教室を作ることになったので、西野君是非とも生徒になって欲しいと、勧誘状を渡された。それ以前二月位まえに、戦後初めての素人の義太夫会が、神田神保町の一心クラブで開かれた。それを私が聴きに行って、湊太夫さん(当時坂本あるをさん)や、大勢の素人義太夫の人たちと接する機会を得たのが切っ掛けである。
縁というものはおかしなもので、私はその縁で義太夫教室の一期生になった。湊太夫さんは私の仲人でもある。

川口さんは若くして病院に入り、見舞いにも行ったが、芝居の話をしながら逝くなった。のちに病室の隣のベッドの患者が、川口さんの感化を受けて退院後、私の義太夫の弟子になった。

<弥乃太夫>

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