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土曜日, 4月 30, 2005

庚申の話

庚申は、十干十二支のひとつで、カノエサルとも読む。十干は、甲乙丙丁戊巳庚申壬葵。十二支は、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥である。それぞれの十と十二の組み合わせで、10×12の最小公倍数が60、即ち同じ十干と十二支の組み合わせは六十年に一回しか廻って来ない。今年だったら乙(キノト)と酉(トリ)で、次の乙酉の年には、六十年を要するわけである。六十歳が還暦 と言われる所以である。月に置き換えると2ヶ月に一回廻ってくる。 

さて、義太夫には「庚申」と言う詞がよく出てくる。近松の「心中宵庚申」や、「絵本太功記」の妙心寺の段、光秀の謀反に腹を立てていた母皐月の詞に
“イヤのう四方天、何事も見ざる、聞かざる、言わざるに、話があらば嫁ン女、庚申待ちにゆるりと聞こう”
と奥へ入る。

また「楠昔噺 三段目の口、どんぶりこの段」にも、爺さんと婆さんが喧嘩で
“そんなら互いに言わざる、聞かざる”
“オオいっそ、それもまし、庚申待ちにゆるりと話そ・・猿が守する洗い物”

これらの義太夫はどちらも、猿の縁で庚申を引き出している。今では寅さんですっかり有名になった柴又の帝釈天は、守護神が猿、二ヶ月に一度の庚申の日は境内は参詣客で賑わう。 

その庚申の日は、庚申待ちといって、夜寝てはいけないとされている。寝るとその隙に、三尸(サンシ)という体内の虫がはいでて、その人の悪事を天帝に告げると言われている。その夜は当然男女の行為も慎み、夜を徹して語り明かす風習であると、豊沢猿蔵師が教えてくれた。その後の調べでは、他に「庚申甲子(カツシ)」と言って、甲子(キノエネ)も同様に考えて房事を忌むとされている。

<弥乃太夫>

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日曜日, 4月 24, 2005

局注進

「絵本太功記 五段目 局注進の段」。その中では、尾田春長(信長)が光秀に討たれた本能寺の変を、中国にいる久吉(秀吉)にいち早く注進に行ったのは、阿能の局(つぼね) ということになっている。阿能の局と智略ある久吉、二人の対応がこの段の骨子である。その局の墓が、深川の雲光寺にある。私が稽古に通った、清澄町の豊沢松太郎師の家の近くなので、この段を教えて頂くきっかけになった。昭和三十一年だった。家の近くだから、という発想も面白い。
声は高く張り上げ、比較的初心者向きなのかも知れないが、初めてでは難しい。何しろ女武者の手負いだから声がすっからびてしまう。文章も難しい。“湯王僚万波を乱し、夜を日に継いだる阿能の局” 湯王とは殷の王朝を創始した人、位は解ったが後が解らない。そして又、三味線もやけに難しく感じた。当時はいくらか三味線が弾けたが、朱(楽譜)を教えてくれたらなと後で思ったものだ。

人様ざまいろいろな稽古方法があると思うが、今日このごろは、若い人に教える義太夫のレパートリについては、カリキュラムを含んだ教則本、きちっとした朱本やテープ類が常に完備していなくては駄目だなといつでも思う。いろいろな師匠方がいられたが、朱というものは、人にはたやすく見せないし教えない。自分が苦労したものを、簡単に覚えられてしまう、と言う気があるようだが、実際に習う弟子は、実力だけの事しかできないものである。すべてを考えてみるに、義太夫界はかなり閉鎖的でもあったような気がする。私なりには開放的に取り組んでいるつもりだが、常に悩んでいる大きな課題である。

<弥乃太夫>

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木曜日, 4月 21, 2005

妙見さま

今はないが、浅草から押上を経て柳島まで都電が走っていた。終点の本所柳島に妙見堂がある。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵五段目」の定九郎の型を編み出した中村仲蔵の話は有名で、芝居噺の落語にもなっている 。仲蔵が柳島の妙見さまへお詣りの帰り道、雨に降られ閉じこめられたそばやに、浪人者が入ってきた。仲蔵はその姿を定九郎の扮装に採り入れたとか。文楽の定九郎の、山賊然とした扮装とは違った粋なものである。その妙見様は妙見菩薩で、北斗七星、北極星を神格化した菩薩とのこと。昔から妙見信仰は盛んにあったようだ。

「絵本太功記 夕顔棚の段」で、近所のお百姓さんに囲まれた皐月も妙見講を勤める一人で、妙見講とは妙見菩薩を信仰する日蓮宗の信者の集まりである。だから夕顔棚の段の幕開きには、楽屋でお題目を唱える。 「関取千両幟」では稲川の妻おとわが、夫の安否を気遣い“夫に怪我のないようにと、祈る神様仏様、妙見さまへ精進も、戻らしゃんして顔見るまで”とある。端唄には「どうぞ叶えて」と言うのがある。“どうぞ叶えてくださんせ、妙見さんへ願掛けて、帰る道にもその人に、逢いたや見たや恋しやと、こっちばかりで先や知らぬ、ええ辛氣らしいじゃないかいな”これを受けた歌舞伎黒御簾音楽でもよく世話物の幕開きにこの曲が使われるが、♪チャチャンチャン どうぞ叶えてくださんせ、妙見さまえ願掛けて~と高らかに唄で始まると、ぞくぞくして、芝居を観るのが一層楽しくなるものである。芝居の内容によっては、観音様でも、天神様でも変えられるようである。

<弥乃太夫> 

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日曜日, 4月 17, 2005

作者のしゃれ

「桂川連理柵」はおなじみ、お半長右衛門の話。京都柳馬場の帯屋の主、長右衛門は“四十に近い身をもって、十四やそこらの小娘と、一緒に死んだら世間の人の笑いの種”になることを承知でお半を連れ出す。“遠州よりの戻りがけ(お半と)石部の宿屋で泊まりあはせ…つい蒲団の中”の結果みごもったお半と二人、死出の道行である。端唄「お伊勢参り」には“お伊勢参りに石部の宿であったとさ、可愛い長右衛門さんの岩田帯しめたとさ”実在とは思わないが、京都の六角堂のそばには二人の碑もあった。
私が稽古してもらった豊沢猿蔵師がよく言っていた。「浄瑠璃の作者はなかなかしゃれが上手だぜ。なぜかって、テレビやドラマで、博打場でサイコロを指に挟み『丁半駒がそろいました』って言うだろ。桂川の二人はその丁半(長右衛門お半)だよ」 なるほど人物にはめこんである。

 「伊賀越道中双六 沼津の段」では父が平作、娘はお米。舞台は田園地帯で、今年も米の収穫は平年通り。そこでお米と平作の名が出来たのかと思うがいかがだろう? 同じく「伊賀越」の「新関の段」俗に「遠眼鏡」では、男女のいちゃいちゃしているのを望遠鏡で覗いているのが奴の助平。上手く命名したものである。今で言えば「和田平助」。なにその名前 ?って? 一時期流行った。逆さに読んでごらん。

<弥乃太夫>

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木曜日, 4月 14, 2005

妙心寺雑感 その2

妙心寺を舞台にかけた第二回目は、昭和二十八年二月の邦楽道場でだった。
そのときは下村海南老が聞いて下さった。老曰く、「私はこの種のものは嫌いだ」 老は邦楽において、概して音曲的、抜粋ものを提唱されていた。「君はよく語るけれど、客にはあまり興味をもたれない題材だ。小唄が流行しているのは、歌詞も短いし、時間もせいぜい3分位が関の山で、いいなあと思うところで終わるからだ。義太夫となると、10分やそこらでは語れず、人を感動させるには長時間を費やすから、いいところを選ってやるべきだ」と言われた。そばにいた師匠達はちょっと戸惑いを見せた。
下村海南老は、人も知る終戦の時、情報局総裁で天皇の玉音放送に携わった方だ。義太夫が好きで、のちに台湾に移られ、初代竹本朝重師に師事されていた。私も個人的に可愛がられ、君は短歌をやらないかね、と勧められたがその期を逸してしまった。土佐の高知の海岸に先生の胸像がある。

第三回目は昭和二十九年八月五日、本牧亭での竹本路太夫師の会にて。師からは「前途有望だ」との評をいただいた。「妙心寺という義太夫は、四方天の諌言がやまだから、もっと息遣いを上手にやる工夫が大事。充分に息を蓄えねばバテてしまう」と言って、自ら語ってきかせて下さった。路太夫師は、壺坂、沓掛村、山名やなどの義太夫に定評があった。
豊沢猿玉師が傍から、「妙心寺はいいわね、私は大好きよ。今度義太夫教室の若い女性で掛け合いをやらせたい」と言われた。義太夫教室も当時第7期になっていた。昨年の「若竹会」の義太夫会では、女性で「竹の間」の掛け合いをやったのである。
猿玉師は、当時私が所帯を持っていた浅草松葉町のアパートの隣室にいられた。だから家内ともども懇意にしてもらった。安藤鶴夫さんのお父さんの竹本都太夫師は、よく見えられ師と仲が良かった。また竹本糸三さんも、家が稲荷町の五雲堂なので、稽古に見えていた。とても綺麗な方で、浄瑠璃が粋で、私は好きだった。
その猿玉師は、八十何歳かで上野本牧亭で引退興行をした。

<弥乃太夫>

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金曜日, 4月 08, 2005

妙心寺雑感 その1

「絵本太功記」六段目の「妙心寺」を私が初めて舞台に掛けたのは、昭和二十七年、義太夫協会秋期大会第一回公演で、場所は上野松坂ホールの舞台であった。三味線は豊沢猿蔵師匠で、随分と稽古して頂いた。大先輩の師匠方が大勢聴いてくださって緊張したが、色々のご批評を頂いて勉強になった。
本能寺の変で勝利を治めた光秀軍は、妙心寺に砦を構えたが、光秀の母皐月はその無法ぶりを憤り単身尼ケ崎へ退く。光秀は信長を討ったことを悔い、自害を決意するが、家老の四方天や息子十次郎に諌言せられ、自決を思い止まり久吉を討つことを決意する。

いまに思えば、猿蔵師の大きな撥音にはとてもとても対抗出来なかった。がむしゃらにしがみつく感じだ。
語りながら両手が自然と強く腰を押さえ込む事は、非常にいいことだ、と豊沢猿之助師には褒められた。川口子太郎氏は言われた。光秀の真の大きさがまだ伝わってこない、大きいばかりでは駄目だと。また普通はカットする、“かくたる世にも花開く”の箇所は、十段目の初菊と十次郎以上に、二人の濃厚な恋模様だよと。また四方天の詞は、早くて癇癪持ちのようだ、と。

楽屋へ降りられた猿蔵師に、鶴沢三生師は、「兄さん良かったです。私は子供の時以来で忘れました」といいながら、後半の合を弾き始めた。さすがだ、と私はびっくりした。猿蔵師は「私ももう年で、弾けなくなりましたよ」。そばで聴いていた私は、あんなすばらしい三味線を弾いて頂き、感激していたのに、すごい事だなと、内心思わずにはいられなかった。 猿蔵師は、出の三味線で、正面を見据え「ハッツ」と大きくかけ声をするのが特徴である。それもとくに大きい。後半の駒の合方、轡の音、ノリ、本当に軍勢の勢いそのままの糸捌きは絶妙で、すごい。

そこへ岡田蝶花形氏が「重大欠点がある」と本を片手に息せき飛んでこられた。
「君、『大道、真源に徹す』を、『大道真、深く』とは何事か。これを見たまえ」と真書太閤記を私の前へ出した。振り向いて猿蔵師に「師匠、これからは直してください」 師は「これは申し訳ない。此処のところは昔から、『シンゲン』、あるいは『深く』と両方やってきましたが、語りの語調がいいので寧ろ『深く』とやっていました。お説の通り、『大道、真源に徹す』と改めます。文献に基づかない語呂本意にやってきたのでネ」「嘘をやられては困る。頼みましたよ」「ハイハイ」
そばに豊竹湊太夫師、「プロになると、このようなことはなかなか避けては通れないよ」とニコニコして一言仰有った。義太夫の文章はなかなかに難しいものだなと感じた。蝶花形氏もやっと笑顔がもどり納得する。
そして私に、君は十次郎がいいね、だが「諸軍の勢い」はどうも勢いがない、と言われた。この方はお医者さんで、妙心寺が大の得意、そして浄瑠璃すべての考証にも精通していると自認している方と聞いている。又娘義太夫に関しての著書も数ある。

<弥乃太夫>

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水曜日, 4月 06, 2005

西行法師

「絵本太功記」の夕顔棚の段で、久吉がかけこんで来るところがある。
“風呂敷背なに一気せき、蛙(カワズ)飛び込む道のべの、清水結ばん夏の旅・・”
この歌は、西行法師の“道のべに 清水流るる柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ”から引用したものであるという。そして当然ながら、芭蕉の“古池や蛙飛び込む水の音”も掛けてある。

西行法師は百人一首では、“なげけとて 月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな”の歌でおなじみだ。
出家する前は朝廷に仕える北面の武士で、佐藤義清といった。武門の生まれの青年が何で世を捨てたのか解らない。友人の死、失恋、政争に巻き込まれた、世の無情を感じたなどと、様々のことが言い伝えられている。諸国を行脚、放浪した経歴から、西行の歌の女性フアンも多いとか聞いた事がある。

ところで、百人一首では次の「きりぎりす」の歌が私は好きである。
“きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む”
作者は、後京極摂政前太政大臣、これは藤原良経のことである。
「仮名手本忠臣蔵八段目」には、この歌を引用した詞章がある。
“梶取る音は鈴虫か、いや、きりぎりす、鳴くや霜夜と読みたるは、小夜更けてこそ・・”
義太夫節には百人一首からの引用がかなりあると思われる。今度調べてみたい。

<弥乃太夫>

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金曜日, 4月 01, 2005

冷泉節

義太夫の曲節について野沢吉二郎師の話された中から、冷泉節を採り上げてみたい。
師の言われたことによると、義太夫節の中に存在する曲節は、百二十種余と言われているが名称、曲風も詳らかならず、ただ伝統的口伝によるもので完全な曲譜も存在しない、残念の一語に尽きると。 

その中で、冷泉節という曲節については言い伝えられた事がある。
“人の喜ぶ日と言わば、我は嘆きのます鏡”
これは近松門左衛門作、もとは宇治加賀橡の語り物であった「世継曽我四段目」中の一章句であるが、この文を竹本義太夫が「冷泉」という節で語ったので、浄瑠璃界に大問題を起こしたというのである。元来「冷泉」という曲節は、琵琶をあしらって語った浄瑠璃節初期の語り物、「浄瑠璃十二段草紙」中の矢矧長者屋敷の段に登場する、腰元冷泉という女の所作を表現した節である。哄笑の情緒を呼び起こす諧謔的で滑稽な曲として好評があったこの節を、竹本義太夫は、もっとも相反する“嘆きのます…云々” の哀傷的な文章に用いたのだ。世継曽我を得意としていた加賀橡は烈火のごとく怒り、義太夫を浄瑠璃道の破壊者と非難した。
しかし義太夫は少しも意に介せず堂々と語った。それが町中の大評判となり、竹本座は大入りとなる。
以来、冷泉節の諧謔的イメージは哀愁的悲歌に変化して、聞く人をして涙催さぬは無いと言われ、特に憂いに沈む女の悲傷的な情趣を表す箇所に付けられるようになった。  
「浄瑠璃秘曲傳」によると、冷泉節は“祝事には用いざるべし”とある。

よく言われることは、冷泉節そのものはかなり長い曲節で、ために、長い動作の箇所に付けられる。即ち本を読む、髪の乱れを直す、お経を読む、沈思黙考するなどなど。
また冷泉節は、江戸冷泉、冷泉かかり(純冷泉)などの種類があり、「節章句早覚え」のなかには、
“さても、ひさしの冷泉や、江戸冷泉に合いも有り”と書いてあるが、“さてもやさしの冷泉や”と言いはやされていたので“やさ”しが正しいと思う、とも師匠は言われた。
義太夫節のほかにも河東、一中、富本、歌浄瑠璃にも多く用いられている。

<弥乃太夫>

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