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火曜日, 5月 31, 2005

車引き

「菅原伝授手習鑑」の三段目口は「車曳きの段」である。文楽は車曳き、歌舞伎は車引きの字を使う。歌舞伎では特に豪華絢爛たる舞台である。
“鳥の子の巣に離れ、魚陸に上がるとは、浪人の身の例え草…”竹本の義太夫に始まり、「宮神楽」という二上リの華やかな下座が奏される。梅王丸と桜丸が出会い、雑引きが出て杉王、時平公、それに従う松王丸と、登場する皆それぞれに、義太夫の、文楽とは違った「ノリ」がある。梅王のノリ、桜丸のノリ、松王のノリと、楽しいものである。三味線に乗ったからノリというが、ここでは台詞まわしの「詞ノリ 」がある。“なんと聞いたか桜丸、斎世の宮、菅しょう相 を憂い目にあわせし時平の大臣…”

以前、新年の隠し芸のTVで、森進一、五木ひろし、西条秀樹の歌手三人が、歌舞伎の車引きを演じ、私が豊沢和幸さんの三味線で義太夫を勤めた事があった。皆おふざけでなく、それなりに決まっていて好評だった。

もう一つこんな思い出。新橋の駅前で天ぷら屋を営業していた吉田美知句さん、という社長さんがいた。この「美知句」は義太夫の芸名。(芸が未熟だから)のシャレかとても愉快なお方で、義太夫教室でこの車曳きをやった時に「時平の七笑いと言うだろう、あれは七色に笑いを変えるのだよアハハハハ…」なんて言って煙に巻いていた。考えてみるに、当時一世を風靡した、天中軒雲月という女の浪曲師がいたが、彼女は七色の声が得意で売り物だったのでその影響であろう。さてこの吉田さんは、笛も鳴り物も良くなさる方で、会の当日、わしが下座をやろうということになって出演して下さった。ピードドンと左手に笛、右手で太鼓と器用なお方だ。初めて鳴り物が入って語りに重みが加わって出演者皆感激。
それ以来、芝居仕立てのものは、鳴り物や下座を使いたいと思ったことだ。 

<弥乃太夫>

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水曜日, 5月 25, 2005

柳に寄せる幻想

昭和30年代に、義太夫「三十三間堂・柳の段」を題材にして、表記「柳に寄せる幻想」という曲を作った。太棹を中心に、笛、琴、ナレーションで構成した。物語は、柳の大木の梢に鷹の足尾が絡まり、鷹を救けるには柳を伐る他はないと騒いでいるところに、通りかかった横曽根平太郎が、矢をつがえて梢を射きったところから始まる。一命を取り止めた柳は、人間の女お柳に化身して平太郎と夫婦になった。義太夫には人間と動物の婚姻譚はあるが、植物とは珍しい。そして夫婦の間には子供の緑丸が出来た。柳は緑色なので、子供の名前が緑丸。理に叶っている。しかし、その柳が京都三十三間堂の棟木として伐られることになり、母のお柳は元の柳の精となり、子供をおいて消え果てる。小泉八雲の「雪女」も亭主を残して消え去り幻想的だが、こちらは子供が絡むのでより哀れさが増す。

当時、何々に寄せる幻想、というタイトルが流行ったので、私もマネしたわけ。おかげでうけた。その時分、東京の人形町に淺田軒というおいしいすき焼き屋があった。そこの社長の淺田奇声さんという人が義太夫好きで、これを聴きに来て「ヘエ三十三間堂ってこういう筋なのか」と妙に感心して褒めてくれた。印象深い思い出である。

街道を柳の大木が運ばれる際の曲が「木遣音頭」だが、元々この柳の段の「木遣音頭」は義太夫の名曲の一つである。一時、古典音楽を紹介する中学の指導要領にも載った。旋律はリズミカルで、誰にでも覚えやすい。曲想も、義太夫で言うウレイとギン、絶対音と半音で語り分ける。語りに対する解釈は様々で、音頭の語りだしの詞“和歌の浦には名所がござる”は人夫達がやるので、三味線にはなれて語る教えもあるが、私は旋律通り素直に、音楽的に唄うようにしている。また、この音頭という曲節は、皆で気持ちを一つにして、一つの作業をする際の曲である。皆で和して仕事に打ち込むわけであるから、リズムは崩せない。他には「妹背山の井戸替え」なども同じパターンである。

ところで、一昨年、那智方面へ旅行した。観光バスの中でだったが、三十三間堂にまつわる、平太郎、お柳、緑丸一家の話をビデオで紹介していた。もともとこの「柳」の話は、那智熊野地方の伝説である。以前、今の市川猿之助さんが和歌の浦で「素抱落」を演じられたとき、依頼されて弦二郎さんの三味線で語ったことがある。そのついでに、この木遣音頭に登場する旧跡を訪ねてみることにした。
“和歌の浦には名所がござる。一に権現ニに玉津島、三に下がり松四に塩竃よ。ヨイヨイヨイトナ”
なるほど一に権現で、小高い山に権現様(徳川家康)が祀られている。ニに玉津島、山を下ると玉津島神社がある。三に下り松、これはひどい。囲いがしてあって、しょんぼりと松の苗木が植えられていた。浅草吉原の見返り柳みたいな物である。四に塩竃、仙台の塩竃様は立派だが、勧進したものであろう。小さな神社である。名所とはえてしてこんなものであろう。

<弥乃太夫>

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土曜日, 5月 14, 2005

NHKのど自慢

昭和20年代、NHKが初めてのど自慢番組を放送した。
当時戦後のまだ生々しい傷跡が残ってはいたが、人々はやっと自分の生活を徐々に取り戻していた。勇気と希望を与える番組として、のど自慢は人気があった。今では、日本の各地はもとより海外にまで人気があるようで、毎週日曜日行われている長寿番組である。カンカンカン鳴り響く鐘、合格者は飛び上がって喜ぶ。

ふと昔のことを思い出す。私はそののど自慢に応募したのだ。そして、採用された。まだ内幸町にあった日本放送協会でのこと。当時の流行歌を歌う人たちに混じって私は、義太夫をやった。三十三間堂の木遣音頭で “和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃、ヨイヨイヨイトナ” カーン 当然鐘一つ。
緊張したし、胸はどきどきしたが楽しかった。三味線は、二代目竹本綾之助さんのお弟子の、竹本綾作さんである。快く引き受けてくれた。
「私が弾いてあげるから、頑張りなさいヨ」 師匠には悪いことをした。報えなかった。

こんなことが、自分のその後のいろいろな活動の切っ掛けになった。綾作師匠は、義太夫教室の先生に一時期なり、神田須田町の今はない寄席立花亭のとなり、地下鉄入り口の、大きな時計のあるビルの2階で「壺坂霊験記 沢市内の段」を教えてくれたりしたのだ。

<弥乃太夫>

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火曜日, 5月 10, 2005

不知火の女

SHIRQNUI0

フラメンコの長嶺ヤス子さんが、4月12日、アートスフィア(天王州アイル)で「不知火の女」を踊った。近松門左衛門原作の「博多小女郎波枕」を、杉昌郎先生が自由に脚色・演出し、音楽は義太夫、鳴物の他に演歌が随所に挿入される。義太夫は私、三味線は野沢松也さんと弥乃佐さんが担当した。義太夫は特に近松の原作に囚われることなく、太棹音楽として様々な曲を場面に応じて演奏した。

「雲切れて月の光に蒼ざめし、恨みの袖が闇を裂く.狂い咲く妖しの炎情、忍び寄る賤が言の葉に紐を解き、血ぬれ・・雨にわが肌を焼く」(公演のチラシより)

原作とは違った設定で、妖艶な小女郎という遊女を徹底的に描いたこの作品は、最も長嶺さんの舞踊に適合していた。いや、見事彼女がそれに応えたと見えた。体当たり演技の迫力は見る人をして感嘆せずには措かず、超満員の観客を魅了した。
国禁を犯して密入国した若者を愛してしまった小女郎。実は彼は父を殺した仇だった。原作の小町屋惣七が置き換えられた物だ。そして幕切れ近く、沖の漁り火が二人を冥界へ誘う不知火のように、点々と瞬いている…
要所々々に演歌も採り入れてあるが、演歌のもつ歌の心情を、日本舞踊ともフラメンコともつかぬ情熱的な舞踊で、憎いまでに追求してやまない。演歌で踊る新舞踊などをたまに見ることがあるが、ここまで掘り下げてはいない。二時間ぶっ通しての舞踊、そのフアイトと彼女のエネルギー、敬服した。

<弥乃太夫>

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火曜日, 5月 03, 2005

博多小女郎波枕

最近、日本の漁船(韋駄天)が海賊に襲われたが、昔から瀬戸内には村上水軍など名だたる海賊が横行していた。享保三年(1719年)近松門左衛門は、海賊を扱ったスケールの大きな作品を発表した。文献によると享保三年十月、近松が六十六歳のとき、海上抜荷買い(密貿易)の罪人六十四人を刑に処した事件があって、それに惹かれてこの浄瑠璃が出来たとか。主人公は毛剃九右衛門。名前からして海賊の頭領だ。歌舞伎だと月光を背に元船の舳先に立ち、舞台が大きく廻る勇壮な一コマである。ところが面白いことに、この海賊はいたって小心なところがある。海賊一味が大勢で遊んでいる博多の廓、奥田屋の中に手入れが入ると聞くと怯えるのである。作者の遊びだろうか。

「奥田屋の段」の冒頭は、意味の解らない詞から始まる。 “いひきにて、いひきにて、すいちゃえんちゃ、すはひすふいちょうお、ひいたらこはいみ、さいはんや、さんそ、わうわうわう”  座敷で按摩の欲市が弾いているこの曲は「唐人」といい、詞も「唐人詞」といっている。当時の人々のイメージとしての“唐の言葉=外国語”らしきものを使うことによって、博多のエキゾチックな雰囲気を醸し出そうとしている。曲も三下りで異国的で面白い。毛剃九右衛門一行の大挙しての廓への入り込み、大勢の遊女の請出しの賑わいも異国諷できらびやかである。金持ちになったのは「長者経」のおかげと、毛剃が読み上げる滑稽味ある長者経(もちろんインチキ)は、永代蔵から採ったものと言われる。このあとに子分たちが歌う在所唄も楽しい。“おんらが在所はの、奥山のててうちの、でんぐりでんぐり栗の木の、木の根をまくらに転び寝、この小女郎恋する山家の品物で、南無阿弥陀仏帯といて、コレござれ、抱いて転び寝” こんなところにも作者の遊びが感じられる。隣座敷の賑わいとは対照的に無一文になった宗七は、敵の九右衛門の子分になり、小女郎も身請けされる。“七人一度に身請けとは聴きも及ばぬ大大尽” 亭主が見送り、“男自慢は七人の鼻にあらわれ”でこの浄瑠璃は終わっている。

この「奥田屋」はそもそも、野沢吉二郎師が改訂作曲されたものである。義太夫教室初期の段階でこの奥田屋が教材になり、私は掛け合いで小女郎が振り当てられた。“この身は廓にいるとても”はカン音なので何十回も稽古された。きつかったが楽しい想い出が残る。在所唄も皆で合唱練習をしたものである。

<弥乃太夫>

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