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火曜日, 7月 19, 2005

義太夫の翻訳

昭和28年頃、弘前大学に英語教授の千葉金司さんという先生がいた。その方のお嬢さんと知り合った関係で、先生とも懇意になり、芝居の幕見をご一緒したりした。
千葉さんは義太夫の三味線を弾くと同時に、義太夫の文句を英語に翻訳し、弾き語りをされた。それも、語り、三味線の間に合わして、きちっと収まるように翻訳するのである。長い地合なら、それに寸法を合わした長めの訳、短い地合なら、短い言い廻しの訳と苦心をし、英訳した浄瑠璃のリズムを太棹に乗るように直してゆく。大変な作業である。もともと英語の先生とは言いながら、単なる翻訳ではなく、義太夫の三味線や語りが分からなくては到底出来る物ではない。

昭和27年9月、三笠宮邸で、両陛下に英訳浄瑠璃を語って聞かせたのは有名な話だ。英訳で義太夫の味が出せるか、そんなものは邪道だと言う人もいた。しかしそんなことは、本人先刻御承知だった。日本の伝統音楽、しかも語りが主の義太夫を英語に翻訳することは、少しでも外国の人に義太夫を知って貰いたいとの純粋な思いからで、その努力は敬服に値する。知る人ぞ知る義太夫の海外への紹介者である。

一時NHKでも取り上げられたことがあった。そのころの録音があればと探しているので、何かご存知の方はおしらせください。。
翻訳本が新しく完成する度に、送って下さったが今見あたらない。たまたま手元にあったメモから、
一節を御紹介しましょう。


★「三十三間堂棟木由来」柳の段

“仮に女の姿と変じ、柳が元に待ち受けて、夫婦となりしも五年(いつとせ)の、春や昔の春のころ…”

In the temporary disguise of a frail woman,
I was standing at the root of a willow,
Waiting for you to be your bride,
In the memorable spring time of yore,
Say,five year ago.

<弥乃太夫>

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日曜日, 7月 10, 2005

日生劇場オープンの歌舞伎

昭和38年10月、東京日比谷に日生劇場がオープンした。武智鉄二演出の歌舞伎が上演されたのは、翌年昭和39年(1964)の1月興行である。高度成長のこの年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した。
演目は、近松門左衛門の名作「心中天網島」の通し(河庄、紙屋内、大和や、道行橋づくし、心中場)で、特筆すべきは、義太夫は従来の歌舞伎の竹本ではなく、本行(文楽)通り、詞だけは役者が言う演出になっていたことである。
武智歌舞伎としては画期的なものである。しかし役者さんは歌舞伎特有のト書き式ではないので、随分と戸惑ったに違いない。

配役は、扇雀(今の鴈治郎)の治兵衛、猿之助の小春、そして仁左衛門の孫右衛門であった。その前年に市川猿之助が猿翁となり、孫の団子が市川猿之助を継いだが、瞬く間に猿翁、親の段四郎と他界し、いまや若手ホープとして猿之助が期待されていた。作曲、編曲は野沢吉二郎師。出演は東京の義太夫連で、私もその一員に選ばれ、吉二郎師の三味線で「大和屋」を語った。
     
大和屋の弾き出しは、情緒的で、綺麗な曲である。
“恋情け、ここを瀬にせん蜆川、流るる水も行き通う、人も音せぬ十五夜の、月冴えて光は暗き門行灯、大和や伝兵衛を一字書き、眠りがちなる拍子木に、番太が足取り千鳥足、ごようざ、ごようざ、も声ふけたり”
犬の遠吠え、眠そうな夜番の声、月だけが冷たく冴えている。野沢吉二郎師の艶麗情緒的な三味線にカバーされて、なんとか舞台を努めさせて貰った。感激もまた一入である。

改めて、出演の東京義太夫界のメンバーを見るに、平成十七年現在二人しか残っていない。
(太夫) 豊竹湊太夫、竹本喜久太夫、竹本秀太夫、竹本弥乃太夫、竹本阿弥太夫(綾太夫)
(三味線) 野沢吉二郎、豊沢猿平、鶴沢辰六、野沢吉平  以上  

<弥乃太夫>

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