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日曜日, 1月 29, 2006

上方唄「十日戎」

上方唄の「十日戎」は当時の流行歌らしくいろいろな芸能に使われた。義太夫では「寿連理の松」港町の段で、主人公の太左衛門がほろ酔い機嫌で戻るときにこの十日戎の曲が使われる。“イヤ申しご無心ながら、煙草の火を一つおかし、ヤこれ姉さん、正月に針仕事とはテモきつい、篤実家じゃな、親父さん留守かえ、清十郎どんはどこへ、播磨のお客や、島之内のも息災でかな…”この義太夫は、お夏清十郎を取り扱いながらもめでたい段切で、そのためか外題にも「寿」の文字を嵌めてある。そんなめでたい演目に、お正月の屠蘇気分が漂ってくるこの曲はいかにも似合っている。また歌舞伎では「関取千両幟」稲川内での鉄ヶ嶽の台詞、“コリャまて、待て稲川、その身請けの訳もその客も、この鉄ヶ嶽がよう知っている程に、まあ行かずともよいわいやい…”のメリヤス(BGM)に使う。

この曲は酔っ払いの出入りによく使われている。仲間(ちゅうげん)などが酔ってあっちへヨロヨロこっちへウロウロした光景に、伸縮、緩急自在のメリヤスとしてうってつけなのであろう。いかにも酒に気持ちよく酔った曲調のようだが、もともとの歌詞に酒や酒飲みのことが読み込まれている訳ではない。なぜこの曲が酔っ払いのイメージで使われるのか。常々不思議に思っていたところ、戎神社からの帰り、タクシーの運転手の言葉で疑問が解けた。いわく、笹は酒のことであると。つまり酒は古くはササといった。“笹を担げて千鳥足”は“酒を担げて千鳥足”の意味でもあったのだ。また上方の商家では、酒をもらったお返しに商売繁盛の縁起物の飾りを差し上げる風習があったとのこと。その風習や戎詣りの縁起物を読み込んだこの唄は、商売繁盛の神様戎さん信心が高まるにつれ、大流行したのだろう。義太夫に採りいれられ、笹=酒の連想からか酔っ払いのシーンに繰り返し使われる内に、この曲を聞いただけでお屠蘇気分になったのかもしれない。曲調とシーンがよく合っていたので、後に歌舞伎にも採りいれられたと思われる。

もともとの意味はなくても、繰り返しある場面で使われる内に、あるイメージができあがる。曲節とは大体このようにして出来上がっていくもののようである。
戎さん詣でのご利益か、一つ利口になったようだ。

<弥乃太夫>

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土曜日, 1月 28, 2006

十日戎お詣りの記

毎年1月10日は、商売繁盛の神様、大阪今宮戎神社の祭礼「十日戎」である。上方唄「十日戎」でおなじみだったが一度も行ったことがない。そこで前夜急に思い立ち、娘とお弟子二人の四人でお詣りすることにした。お弟子の内一人は大阪出身、子供のころに行ったことがあるそうで心強い。

ebis1東京から「のぞみ」で2時間半、昼ごろ今宮戎神社に着いた。辺りは東京のおとり様のような雰囲気である。しかし人混みはそれほどでもなく、比較的楽に拝殿に近づけた。意外に小さい神社である。これがあの名高い神社かとちょっと不思議に思う。しかし境内は“商売繁盛で笹持って来い”のテープが間断なく流れ賑やかである。まず笹を渡され(この笹は無料)、その後縁起物の飾りを自分でアレとソレという風に指定して、笹につけてもらう。その数で値段が決まる。ちょうど寿司屋のカウンターのようだ。

ebis5飾り物はまず唄のとおりに“十日戎の売り物は、ハゼ袋に採り鉢、銭かます、小判に金箱、立て烏帽子、ゆで蓮、才槌、束ねのし”の小宝がある。これを吉兆(きっきょう)と言うそうだ。その他にも戎の人形がついた熊手、俵、末広などなど、めでたいもののオンパレードである。笹に飾りをつけてくれるのは、その年選ばれた「福娘」達。美人揃いで彼女らを狙って盛んにカメラのシャッターがきられる。ちなみに福娘に選ばれると就職の際にも有利とのこと。“福”が来るのは会社にとっても喜ばしいのであろう。そのためか福娘になれる倍率は大変高いそうだ。

ebis3しばらくして境内が賑やかになった。三味線、太鼓の伴奏と共に芸者さんが駕籠に揺られてやってくる。宝恵駕籠というらしい。神社を出て道頓堀方面に向かう途中でも、いくつもこの駕籠の行列に出会った。各町会ごとにこの行列が組織されているらしい。芸者さんを中心に福娘たち、付き添いの男性と、華やかである。テープで流している賑やかな伴奏の音楽に興味をそそられ、取締り役らしき初老の男性に何の曲か尋ねたら「ええ?全くわかりまへん」とのこと。行列して大店の玄関先で順にご挨拶するらしい。ちょっと東京では見られない、粋でもなくかと言って野暮でもない、全く商業繁栄の都市、大阪らしい行事だと思う。

その後道頓堀で遅い昼食をとる。ふぐでも、と思いある有名店に入ろうとした矢先、救急隊員と共に慌しく担架が担ぎ出されてきた。ふぐ屋で救急車とはシャレにならない。あわてて隣のかに屋に移動した。夕方帰途に就く。大阪滞在時間は5時間足らず。日帰りの慌しいお詣りだった。

<弥乃太夫>

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木曜日, 1月 12, 2006

羽子板市

毎年、師走になると浅草観音境内には、羽子板市が軒を並べる。観音様の日は毎月17、18日で、歌にも「17、18観音さん、25日は天神さん、28日は不動さま」と言う。浅草では近年三社祭は5月17、18日に近い日曜日を選んでいるが、この羽子板市だけは17、18、一つおまけして19日の三日間だけである。日曜には関係ない。羽子板市は詳しくは「歳の市」という。又、羽子板市と同時に「ガサ市」というのが観音様の裏の境内に立つ。
此処では注連飾りなどの正月の飾り物が主として売られている。派手な色彩の羽子板とちがって、名前からして派手さがない、だから知る人は少ない。

comp32

さて、今年の羽子板市は晴天に恵まれた。年々店は増えているようであるが、羽子板に特に目立ったものはない。年々、押し絵の役者絵のものが少なくなり、淋しい限りである。昔はその年に人気のあった歌舞伎役者の羽子板が飾られたが、今では映画女優や、野球や、スポーツ選手のものが目を惹くだろう。あとは役者絵でない道成寺などの只々綺麗だ、と言うだけの羽子板である。中村勘三郎襲名のものは、ただ写真が飾られてあった。特大な羽子板の題材は相変わらず、一ノ谷嫩軍記の組討ち、である。にこにこ笑っているのは、秋場所後大関になった琴奥州の羽子板。そして松井、イチローなどスポーツ選手のもの。並べてある羽子板を指して、そこの「入谷」見せてとか、手前の「松王」などと言ってもわからない。売り子のおねえちゃんが歌舞伎を知らないのである。…

私の母は芝居が好き、羽子板が好きで、私にもその気風が伝わったか、殆ど毎年のように買った時期があった。母は、値切るのも一段と上手かった。値切ったぶんは羽子板屋にご祝儀として渡すのである。私の娘が生まれたとき、母が買ってくれた歌右衛門(当時、芝翫)の「瀧夜叉」は、いまでも毎年の正月には日の目を見る。物心つくころから見慣れたせいか、娘も羽子板が大好きである。「瀧夜叉」は常磐津の名曲で・・・・嵯峨やお室の花盛り・・・直接義太夫とは縁がないが。我が家の羽子板は、特に歌舞伎義太夫狂言の作品が多い。野崎のお光、妹背のお三輪、先代萩の政岡、道成寺、かむろ、他にも助六、外郎売り、三人吉三、等々きりがない。羽子板を前にことあるごとに芝居を話題にしたのが影響したのか、娘も歌舞伎や邦楽に趣味を持つようになった。

慌ただしき年の暮れ、一段落して座敷に羽子板をいっぱい飾る。色とりどりの色彩に囲まれて、アアもう正月だとわくわくしたときもあった。今はお正月でも、羽根の音は都会では聞こえない。せめて羽子板の色どりに昔の正月の風情を感ずるばかりである。

 <弥乃太夫>

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