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土曜日, 4月 29, 2006

寺子屋(寺入り)

東京では、今年は例年より桜の開花が早く、4月初旬にはもう散ってしまった。
4月といえば新入学。初めてランドセルを背負ったピカピカの一年生が見られる季節だ。それで思い出される浄瑠璃に「菅原伝授手習鑑」がある。竹田出雲他の作で、「仮名手本忠臣蔵」、「「義経千本桜」と並ぶ義太夫の三大名作とされている。五段続きの浄瑠璃で、その四段目が寺子屋の段である。
主君菅原道真(浄瑠璃では菅丞相という)のために子供を犠牲にする、至って残酷な物語である。この寺子屋は前後二段に分かれ、前の段が「寺入り」と呼ばれている。主君の子、菅秀才の身代わりとなるため、松王丸の一子小太郎が母親の千代に連れられ、武部源藏の寺子屋へ寺入りに来る。寺入りとは入学のことである。

大体に於いて初心者がこの段を稽古する事が多く、当然私も習った。 それは、一段の中に義太夫の重要な基本的部分が網羅されているからである。まず本文冒頭の「一字千金、二千金、三千世界の宝ぞと、教える人に習う子の、中に交わる菅秀才」。義太夫はその冒頭の語りだしを「マクラ」と言い、総じて難しく、私も何度も直され稽古した。文字の一字は、千金にも二千金にも値する、という中国の故事を引用しているが、ソナエからウキンという手で始まるこの曲が、なかなか腹に収まらない。ぐっと臍下丹田に力をいれて語るのだが・・・・・・。

さて、この寺子屋には気品高き、菅丞相の一子菅秀才もいれば、百姓の子供達も一斉に手習いをしている。どこのクラスにも悪さがいるもので、ここには「涎クリ」といって、15にもなって涎を垂らした知能の遅れたヤツがいる。これがなかなかの悪さで、師匠の留守に手習いをせず(へへののもへじ)を書き暴れている。菅秀才は、そんなこと書かず「一日に一字学べば三百六十字の教え」といってたしなめ相手にしない。歌舞伎でやると涎クリが立たされる科がある。源藏の女房の戸浪が出てきて、今日は主人源藏は留守だが、午後に寺入りがあるので、よく勉強しなさい、昼からは授業は休みというと、そりゃ又嬉しや休みじゃ、と手習い文を声高に読み上げる。今も昔も変わらない子供の生態をよく捉えて面白い。小太郎が寺入りし、母親は隣村へ行くと言って出かけると小太郎は親の後を追う。母は子を叱り、戸浪にまだ頑是がない、と言うと戸浪は、そりゃ道理だ、小母がよいものあげましょう、早く帰ってきて下さいと、目で合図、千代は下男をつれて出て行く。これが、子供との一生の別れになる。此処で寺入りの段は終わる。

寺入りだけを見ていれば子供と母親の単なる親子劇だが、この後の寺子屋でいとも無惨な劇に発展するので、何ともやるせないものである。親子にとって最も嬉しい入学の日が、親子の永遠の別れの日になるとは、悲劇の最たるものであろう。

<弥乃太夫>

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火曜日, 4月 04, 2006

義経びいき

昨年はNHKの大河ドラマで「義経」が取り上げられたが、この義経と塩冶判官(忠臣蔵でお馴染みの、淺野内匠頭)の二人の“判官”は、悲劇の貴公子として昔から日本人に愛されている。兄頼朝の弟義経に対する仕打ちが余りに酷いとの見方から、頼朝は悪役、義経は可哀想な悲劇のヒーローというイメージが作られ、そこから判官贔屓という言葉もできたのであろう。ともかく源義経は日本各地で人気があって、特に義経信仰が強い土地では、地芝居や人形浄瑠璃、どんな舞台でも演目に関係なく、義経が登場しないと治まらない、と言うことを度々先輩から聞かされた。同じようなことは他にもある。熊本地方では、虎退治の加藤清正を出さないとお客が承知しない、などもあったらしい。

昔は地方によっては、その土地に残る信仰、風習、伝説などにより上演がタブーである歌舞伎の演目があった。たとえば、平敦盛信仰がある土地では、敦盛が須磨の浦で熊谷に討たれた事実をモチーフにした芝居「一ノ谷」はやらない、やれば大きなたたりがあると言われていた。忠臣蔵の世界では、吉良上野介(芝居では高師直)は悪役となっているが、三河の国では大変よいお殿様として土地の人に崇拝され慕われているとかで、この地方では忠臣蔵の芝居は打たない、と聞いたこともある。(現在では全国津々浦々歌舞伎興行があるので、そんなことはないだろうが)。どんな演目にも義経が登場するというのも、それとは裏返しのようだが似たような発想であろう、「合邦」(摂州合邦辻)だろうが、「酒屋」(艶容女舞衣)だろうが何をやっても義経が出てくるそうだ。
「酒屋」の場合、具体的にこんな具合である。先輩が見たというその舞台の光景を、そのときのメモから再現してみよう。

宗岸、半兵衛、母お幸の三人が、奥へ入る。床の義太夫、“しおしお奥へ泣きに行く、心の内ぞ、哀れなり”。
ここで義経登場。“~テテン、テンテン~かかる所へ義経公、一間の内より立ち出で給い、~ツーン~
さしたる事もあらばこそ、奥の一間へ、立ち帰る“ 此処で”シャラン“ ”あとには園が憂き思い・・・“となる。

ところで、「虹の会」という、芸能の伝承と保存、老人福祉への社会貢献を目的の法人に依頼されて、昨年11月末、義太夫のセミナー活動を行った。受講者は年配の方が多く、義太夫におおいに興味を示されたので、上記の「酒屋」を実演したところ、大爆笑だった。お茶の間にいきなり鎧兜の大将が飛び込んでくるような光景は、想像するだにおかしい。演奏する太夫、三味線は大真面目であったと思うと、よりおかしさが増すようである。

<弥乃太夫>

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