月曜日, 12月 20, 2004

東海林太郎の野崎小唄とチャンバラ映画の音楽

東海林太郎は姿勢がよく直立不動でマイクの前に立つ歌手で、いろいろヒットを飛ばしたが、中でも「野崎小唄」は一世を風靡した。この曲はもちろん義太夫「新版歌祭文-野崎村」の段切り、舟と駕籠での送りの旋律である。作曲は大村能章である。
私が師事した野沢吉二郎師がよく話していたが、大村能章さんは義太夫が好きで、熱心にメモしていたそうだ。のちには「堀川」のさわりにヒントを得て、「おしゅん恋歌」が出来た。日本的な歌謡の作曲には定評があった。
“野崎参りは屋形船で参ろ、お染久松切ない恋に”われわれ世代ならこれほど人口に膾炙した歌謡曲は無いが、さすが現代の若い人は知らない。私が音調基本講座で義太夫の曲節を説明したときに例を野崎村に挙げたが、一時代前なら判ってくれたがもう時代は過ぎた。

古い話をもうひとつ。映画が活動写真といった頃の話だ。無声映画を子供の頃辛うじて体験した。それは当時の大都映画(大映の前身。のちに日活、新興、大都が合併)で、大きなスクリーンの下にオケボックス(オーケストラボックス)があって、和洋合奏で映画のBGMを演奏する。勿論弁士がいる。
チャンバラ映画では,千鳥の合方や、越後獅子、勧進帳の滝流しといった曲節が使われる。“東山三十六峰眠るがごとき丑三つ時、たちまち響く剣戟の響き”御用提灯が煌めく、嵐寛の剣先がひらめき、ばったばったと捕り手達をなぎ倒す。痛快そのものであった。千鳥の合方といえばチャンバラの場面。この話をやはり音調基本講座でしたところ、「野崎小唄」と同じくご年配の人の共感は得たが、若い人にはさっぱりだった。

戦後、女剣戟が流行った時があった。大江美智子、不二洋子、そして浅香光代など。女の立ち回りで評判になり歌ができた。その節は千鳥の合方の節で歌う。
すなわち、“昔、侍さんは本気になってチャンバラした、今じゃ女が芝居でチャンチャンバラバラ”。今よりは、何と穏やかな時代だったなと思う。

<弥乃太夫>

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水曜日, 12月 08, 2004

役者の義太夫

昔は随分と義太夫の寄席も多かった。戦前の話で、衰微してきたとはいえ、私もいろいろな席へ義太夫を聴きに行った。浅草の並木倶楽部、駒形倶楽部、入谷の公正倶楽部、聖天倶楽部など、従姉妹ともよく行った。小学生の時からで本当に好きだった。

歌舞伎役者は、台詞回しに義太夫を昔から勉強しなくてはいけないと言われている。当時小芝居に出ていた市川福之助、実川延松ふたりの、駒形倶楽部での義太夫も聞いたが、とても上手でびっくりした。福之助が新口,延松が紙冶、三味線は野沢吉と覚えている。

またこれは戦後の話で、上から読んでも下からでも同じ名前の、歌舞伎役者助高屋高助さんが井草に住んでいて、荻窪の我が家へ遊びに来て義太夫をよく語った。わたしが義太夫を始めて2,3年のころだったが、逆櫓を聴かしてくれた。白蔵となった市川門三郎さんも、元は小芝居の座頭だったと思うが、珍しい物をよく知っていて口ずさんでいた。それは安達ヶ原の二段目だった。丸本もよく借りにきた。

私がプロ初舞台の浅草の隅田劇場に、宮戸座の頭取をしていた中村梅助さんと三味線の豊沢作二郎さんが応援に来て、客席から声が掛かった。「大宮前!」当時私は杉並の大宮前に住んでいたから。合羽橋に住んでいたその梅助さんが亡くなったその朝、白装束で杖をつき、私の枕元に立った。「おじさん!」と声をかけたら、「わしは、西国へ行くよ」といった。ハッと目が開いた。本当の話だ。

<弥乃太夫記>

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火曜日, 12月 07, 2004

嵐寛の壺坂

私は「アラカン」こと嵐寛寿郎が、昔から大好きだ。颯爽とした銀幕の鞍馬天狗、すかっとしたあの立ち回り、今でも脳裏に刻まれている。

さてその嵐寛さんが亡くなられる数年前だったと思う。ある日、テレビ局から電話があって、すぐ太棹三味線を持って来てもらいたいという。なんの前触れもなく突然のことで、何の番組でと聞いたら、フジテレビで芸能人の隠し芸のような番組に嵐寛が出演することになり、義太夫の「壺坂」を語ることになったが、嵐寛さんがえらく憤慨しているとのこと。事情を聞いたら、局で何を錯覚したのか、浪花節の曲師を頼んできてしまった。「妻は夫を慕いつつ夫は妻を・・」の壺坂は、浪曲師鈴木米若で有名になり、虎造や勝太郎とともに一世を風靡した。そのため「壺坂」というと浪花節というイメージがあったのだ。嵐寛が怒るのも無理はない。リハでよかった。

折良くちょうど我が家へ豊沢猿三郎師匠が立ち寄った。すぐ事情を話したら、即座に「私が行きましょう」と言う事になり、三味線一式を貸してタクシーを呼んだ 。ことなく嵐寛さんが無事さわりを語られたことは言うまでもない。それにつけても昔の役者は義太夫が腹にはいっているのだなと、感心した。

<弥乃太夫記>

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土曜日, 12月 04, 2004

豊竹湊太夫師との出会い ~進駐軍のポーターから義太夫語りの道へ 弐~

インフォメーション・デスクに回された弥乃太夫先生は、本格的に英語を勉強しようと、御茶ノ水のアテネ・フランセに通う事にしたそうです。そんなある日、御茶ノ水から神保町の方へ歩いていくと、またまた「張り紙」が目に入ったのです。そこには「素人義太夫の会を神保町の一心クラブで開催する」旨が書かれていました。一心クラブがあったのは、今の岩波ホールの近く。子供の頃から歌舞伎や義太夫が大好きだった先生は、誘われるようにその会へ行ってみたそうです。すると、そこには豊竹湊太夫師他、当時の東京の義太夫界の有名な面々が顔を揃えていて、先生はただびっくり。なおかつ、先生に対して義太夫をやるよう熱心に誘ってくれたのでした。

当時先生は松田ビルといって、現在の数寄屋橋交差点の交番の反対側にあったビルの三階に間借りしていたそうで、ある夜中突然ドアをノックする音がしたんだそうです。ドアを開けると妙齢の美しい女性が立っていたなんて、とっても艶っぽくて良いんですが、立っていたのは男の人。でも、この人は只者ではなく、「西の武知(光秀ではなく徹二)、東の川口」と言われた、当時有名だった演出家川口子太郎さんだったのです。実は、その日の少し前に湊太夫さんに会いに浅草の墨田劇場へ先生は行って来たらしく、近々「義太夫教室」を作りたいので参加してくれないかと相談されていたのでした。川口さんは、その教室の案内を湊太夫師のお使いとして、弥乃太夫先生のところへ届けにきてくれたのでした。

川口さんと言えば、先代勘三郎がもしおで、先代歌右衛門が芝翫の頃、二人で『壷坂』をやりましたが、その演出が川口さんだったそうです。
先生も「今思えば、随分凄い人たちと知り合えたな」と感慨ひとしおですが、当時は「これから義太夫が出来る」という思いで頭が一杯で、そこに来られていた講師陣の凄さにまで気が回らなかったということです。

これが竹本弥乃太夫と義太夫の決定的出会い。きっかけは「張り紙」。二度の「張り紙」との出会いで、弥乃太夫先生の人生は、進駐軍のポーターから義太夫語りへと大きく変わっていくのです。
義太夫教室発足式:昭和23年6月15日、アサヒクラブ(現在の三原橋交番から京橋方面へ少し歩いた辺り)にて。竹本弥乃太夫の本格的義太夫修業の始まり。
 講師:野澤吉二郎、豊沢松太郎、豊沢猿幸、鶴沢綱造、鶴沢三生、三宅周太郎他。

<やま記>

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火曜日, 11月 30, 2004

英語ペラペラ ~進駐軍のポーターから義太夫語りの道へ 壱~

子供の頃から、弥乃太夫先生の家庭や近所には音曲が聞こえていたそうです。家の近くには芝居小屋があり、よく小芝居を見たり、弁当配達の手伝いをして、岡持で弁当を芝居小屋へまで持っていったこともあったくらいでした。
弥乃太夫先生は、終戦後予科練から復員して東京へ戻ってきました。しかし、銀座は焼け野原、これからどうしていこうかと考えながら、あてども無く銀座をさ迷い歩いていたそうです。しかし、何か職にありつかなければ、食べていけません。当時予科練帰りの若者はドカレンと呼ばれ、体力だけはあり、土方向きだと言われていたのでした。

なんでも良い、兎に角仕事を!と必死の思いで銀座を歩いていたら、「ポーター募集」という張り紙があったそうです。早速訪ねていってみると、そこは何と進駐軍の第五空軍の将校たちの宿舎で、そこで荷物持ちをやってくれということだったのでした。やっとこれで食っていける、と安心したのは良かったのですが、一日でポーターを辞めることになってしまったそうです。というのも、次の日、銀座の、当時パンパンと言われた進駐軍相手の街娼とMP(アメリカ軍憲兵)の喧嘩の仲裁を先生が頼まれ、上手く処理したので、英語の能力を買われたのか、先生はその日からインフォメーション・デスクで働くよう命令されたからです。後日、このことが義太夫と弥乃太夫先生を結びつけることになるとは、人生って奇妙です。

<やま記>

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火曜日, 11月 16, 2004

大正琴で弾いた義太夫 ~野澤吉二郎師のこと~

義太夫教室というものが東京に誕生したのは昭和23年。教室の講師には錚々たる面々の名まえがあったといいます。その講師陣の中で弥乃太夫先生がよく名前を挙げられるのが、野澤吉二郎師のお名前です。吉二郎師は、義太夫を教えたり研究する上で、独自の方法を考えていたらしいのです。その一例を弥乃太夫先生が、今日お話してくれました。

ある日突然吉二郎師が、「ピアノを見つけてきてくれ」と先生のところへ頼みにきました。終戦直後ですから、ピアノなんて見つかるはずが無い。どうしてピアノが必要なのかを聞くと、『酒屋』の「今ごろは半七さん」のサワリを五線譜に書きたいとのこと。ピアノは入手できなかったので、弥乃太夫先生は当時700円位で大正琴を手に入れたそうです。雷門の並木そば(並木クラブという義太夫の定席)の本妻の家ではなく、駒形のお妾さん(八重さんて言った)の家、前川うなぎ屋辺りで、先生が大正琴を弾いて「今ごろは半七さん」を、西洋音階にして五線譜に書いてみたそうです。

「言葉が音・メロディーになっている」と、先生はつくづく感心し、また驚き、義太夫節の音楽性というものを認識したそうです。吉二郎師の発見というか工夫。こういう吉二郎師の義太夫節研究への真剣な態度は、弥乃太夫先生の義太夫観にも大きな影響を与えたそうです。語り物の持つ音楽面の再認識です。吉二郎師が研究熱心な人だったので、義太夫節の節を覚えるための「節づくし」、「節の藻汐」などを良く知っていて、弥乃太夫先生も教えていただいたそうです。

<やま記>

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日曜日, 11月 07, 2004

義太夫芸者

お座敷で義太夫を聴かせることはあったのかを弥乃太夫師匠にお伺いしました。落語の『寝床』は有名で、義太夫を稽古している長屋の大家が、自分の義太夫を聴かせたくてしょうがない。大家の機嫌を損ねたくない店子達が、イヤイヤながら大家の家の広間でそれを聴くという内容ですが、経済的に余裕がある人は義太夫を稽古し、素人義太夫を聴かされる方(店子)も義太夫を良く知っていたという時代が描かれています。いろんなところで義太夫の会があったのです。

お座敷で芸者さんが普通得意としたものは、小唄・端唄など細棹三味線を使うものが多く、これは今も変わりありません。でも、義太夫が流行っていた時代には、義太夫が聴きたいというお客さんも少なくなく、義太夫を語れる専門の芸者さんがいたそうです。そういう芸者さんを「義太夫芸者」と呼んでいたそうで、弥乃太夫師匠はこの芸者さんのお座敷を見たことはなかったそうですが、まだ顔もはっきり覚えている当時の浅草の芸者さんに、「かきつ」と言う義太夫芸者さんがいたそうです。浅草だけでなく、新橋などにもたくさんいたらしく、お客さんを義太夫で楽しませていた情景がしのばれます。

義太夫を注文するお客さんも義太夫を良く知っていたでしょうが、「『壷坂』のお里のサワリをやってくれ」とか「やっぱり『柳』、木遣り音頭だ」、「『大十』の操のクドキ」などと注文を出されても、それに応えられるだけの義太夫の知識と演奏能力がなければならなかったので、芸者さんも相当の義太夫の実力を身につけてなければなりません。

義太夫芸者は義太夫のサワリなどを一人で弾き語りしただけでなく、お客さんが語りたければ三味線を弾いてあげたらしい。すると、太棹を弾いていたのでしょうか。そういう人もいたでしょう。しかし、当時誰もが知っていた細棹を太棹の音に変える方法があり、細棹でも十分に義太夫の注文に対応できたんだと思います。
それではその方法とは?

それは、次回のお話とさせていただきます。

<やま記>

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日曜日, 10月 31, 2004

口上

今までに見た様々な舞台、芸にまつわる面白い話、今書き残しておかなくては忘れられてしまうささやかなエピソード、町で見つけたもの、昔の芸人のちょっとした芸談…日々の暮らしの中で、見聞きしたり思い出したりした義太夫や芸に関わる話を、思いつくままに語るコーナーです。
記述は主に私のお弟子さんが担当してくれます。時には私も忘れてしまうような小さな話を、私の家族が書くかもしれません。もちろん私弥乃太夫も、日々の雑感などを書いていきたいと思います。
脱線することも、脈絡のない話もあるかもしれませんが、そこは森羅万象―なんでもあり―ということでひとつご容赦を。どうかゆるりとお付き合いください。

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